今日は、いつも参照している『ふるさと世田谷を語る』が手元にありませんで、
いつもとは違う『せたがやトラスト街・自然ウォッチング 第五集』から
お話を見ていきたいと思います。
平安末期、源頼朝は奥州平泉の藤原氏を討ち果たし、
その帰途このあたりで狩をしました。
その時に、愛馬の葦毛がぬかるみに足を取られてしまい、死んでしまいました。
これを悲しんだ頼朝は、ここに遺骸を葬り、
「以後この沢を通るときには馬に乗ったまま通ってはならぬ、馬を引いて通れ」
と命じたといわれています。
この「馬を引く沢」から「馬引沢」と呼ばれるようになり、
その後、上馬引沢村・下馬引沢村となり、
現在の上馬、下馬の地名になったと言われています。
以上世田谷トラストの本から抜粋しました。
細かいところでは、
頼朝が奥州征伐に行く際に、
かつて義家が奥州征伐に行った際の武運にあやかって、
ここの子の神社(現在の駒繋神社)に参拝をし、
その時に愛馬の葦毛がぬかるみに足をとられて死んでしまった
という違いの話もあります。(何だか縁起が悪いですが・・・・。)
前回「下馬の民話」の方でも書きましたが、
この葦毛の馬を葬った葦毛塚も、
頼朝が参拝したとされる駒繋神社も蛇崩川近くに現在もあります。
また駒繋神社には、頼朝が馬を繋いだとされる松の三代目が植わっています。
この辺りはさすが関東とも言うべきか、
「馬」に関した地名が多いですよね。