世田谷これまである記 -blog編-


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上北沢の民話

上北沢村で、鈴木家という家柄も良く、長く村長をつとめた家の末娘が忽然と消えました。村中総出で、ある時は甲斐や上野の国にまで探しに行きましたが、行方はわかりませんでした。そして一月ほど経った夜、家の裏側から娘の声が聞こえ、自分は家や村を守るために、井の頭の池の主のところへ嫁入りをしたのだ、と言いました。声が途切れて動けるようになった両親が声のした方に行ってみると、そこには一筋の道ができていて井の頭池まで続いていました。それを見た両親は娘の幸せを祈って手を合わせました。

というお話です。
井の頭池は、前に池尻の民話にもでてきました。その時は池尻村の池が無くなってしまったので、池の主が井の頭池に引っ越すというお話でした。池の主は女の人の姿でしたが。
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by hirainatsuko | 2006-05-31 10:44 | 民話・伝説


喜多見の民話 

村の刀自女(とじめ)の夫、和多利(わたり)は川の水音で洪水がやってくるのがわかる人でした。雨の多い年、和多利は洪水がやってくると気づきました。それを聞いた刀自女は急いで村君に知らせましたが、村君は取り合いませんでした。和多利は村の大切な布や麻糸がしまってある蔵を守るために出て行きましたが、洪水が押し寄せてそのまま帰らぬ人となりました。刀自女は悲しみ、和多利を供養する塚を立てて、今後は自分が水の音を聞き分けて村を守っていこうと決意しました。その後村君は国衙の役人を刀自女のところに連れてきて、洪水の時取りあわなかったことを侘び、国衙の役人は、ずっと供養ができるようにと刀自女に田と畑を与えました。すると刀自女は、村には洪水のため人身御供となった人が大勢いると言い、その人たちを供養するために大きな塚を立てることを願い出ました。
その後喜多見では、村君を先頭に堤防を築きあげました。

以上『改訂世田谷の民話』より、となっています。

登場人物の名前や国衙が出てくることからして、古代を舞台にしたお話のようですね。珍しい気がします。お話の中に、「村の大切な布や麻糸」というのが出てきますが、昔は多摩川流域のあたりは布の産地でした。有名な東歌「たまがわのさらす手作りさらさらになんぞこのこのここだかなしき」という歌があります。それ以外にも、渡来人のコマ(高麗)からとられたとされる狛江のには、上記の歌の碑が立っています。また砧の地名も布の生産過程で使われる木鎚である砧からきていると言います。
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by hirainatsuko | 2006-05-30 16:12 | 民話・伝説


祖師谷の民話 

今日は祖師谷の民話です。

百日以上も雨の降らない日々が続き、村では雨乞いのために大山に詣でたり、不動の水をもらって雨乞いをしたりしましたが、いっこうに雨の降る気配はありません。村の祖師堂の和尚さんも熱心にお経をあげて祈っていました。そんな中、ある日雨と風の激しい夜がきました。幾日ぶりかの雨でしたが、和尚さんの姿とお堂の釣鐘が見当たりません。和尚さんは雨乞いのため、鐘をおもりにして、池の底に身を沈めたのです。三日降り続いた雨がやんだあと、お堂のところには釣鐘の形をした池ができていました。この釣鐘池はどんな日照りにも水をたたえ、村を潤したそうです。

以上『改訂 世田谷の民話』よりでした。
以下『ふるさと世田谷を語る』に書いてあったことをまとめてみます。
釣鐘池自体は大昔から人々に生活用水として使われていたようで、近くには縄文時代の遺跡が見つかっています。その後も灌漑用水として使われていました。雨乞いをするときは総出で、周りに茂っている葦などの草刈をしたそうです。しかし昭和25年辺りから池の水が涸れ、その後区の管理となって、池の形はそのまま残し水道水を循環させて水を保つ池として、現在はつりがね池公園として整備されているそうです。

また雨乞いのために大山阿夫利神社に詣でたということが文中にありましたが、ここで水をもらって帰るときは、後ろを振り返ってはいけなかったそうです。振り返るとそこで効果が無くなるといわれていたからです。また立ち止まったり、水の入った竹筒を置いたりすると、そこに雨が降ってしまうとも言われていたため、ただひたすらに帰ってこなくてはならなかったそうです。

ちなみに「祖師谷」という地名の由来はここに地福寺という寺があり、そこに祖師堂があったためという説があります。これだとお話の中に祖師堂が出てくるのも肯けますね。
他には「サス」という焼畑地名がなまってできた地名だという説もあります。
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by hirainatsuko | 2006-05-30 15:37 | 民話・伝説


中華街の案内所

昨日中華街に行くことがあり、たまたま前に調べたChainatown80を見かけてきました。
見かけたという言葉どおり、時間が無くてほんの1分ほど立ち寄っただけなんですが、きれいで広くて一等地で良いなぁと思いました。

中華街の全体のパンフレットと各店舗のチラシがおいてありましたね。
カウンターには赤と黒のチャイナ服を着たお姉さんがいました。

あとは横浜銀行と何かのATMがありました。
残りはイベントスペース。昨日は立ち入り禁止で入ることができなかったんですが。
どちらかというとATMに人がいっぱいいました。
案内所に何か他の施設がついてると、利用幅が増えていいですね。
ただ見た目にはあの建物が案内所だってちょっと分かりにくい気もしました。

しかし中華街は久々だったのですが、活気のある商店街で楽しいです。
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by hirainatsuko | 2006-05-26 14:39 | 各地の案内所


次太夫掘のお話

今日は手元に『ふるさと世田谷を語る』がありませんで、また図書館から借りてこなくてはならないのですが、さしあたって今回は『世田谷城下史話』という人見輝人氏が書かれた本から世田谷のお話を紹介したいと思います。

江戸時代初期、多摩川近くの村で、水の利が悪い地域がありました。みかねた小泉次太夫が家康に願い出て、多摩川の両岸に水路を造ることにしました。村人も工事に参加しましたが、その中でお春さんの父親が病気にかかって、割り当てられた仕事が出来なくなってしまいました。そこでお春さんは父の代わりに仕事に出ることにしましたが、当時は女性が仕事に就くことが許されていませんでした。なのでお春さんは役人には見つからぬようにし、村人たちもお春さんを役人から隠してあげました。ある日代官の小泉次太夫が工事を見回ったとき、お春さんの入っているグループだけ楽しそうで、しかも仕事の進みも早いことに気づきました。不思議に思った次太夫が近づいてみると、女性のお春さんを見つけ驚きました。しかし事情を聞くと感心し、お春さんの親孝行を誉めました。そして男と女が一緒に働けば能率が上がることに気づき、男十人に一人は女を交ぜることにしました。それからはぐんぐんと工事がはかどったといいます。

以上次太夫掘にまつわるお話でした。
ちなみに注釈がついていて、小泉次太夫について、1538年~1623年元今川氏家臣、幕臣代官を勤め、八十五歳で死去。また次太夫掘について、「六郷用水」通称「次太夫掘」「女掘」。慶長二年(1597)より十五年の歳月を経て完成。とあります。

そしてこの本を書かれた人見輝人氏についてなのですが、本の後ろに略歴が載っているのでそれを書かせていただくと、
大正14年に那須温泉神社社家に成育。
昭和20年に東京第一師範学校卒業。その後区内小学校の教職につく。
昭和53年に社会教育主事となる。
昭和61年に郷土資料館に勤務。現在(平成12年発行)常盤塚保存会長。
とあります。

今度昭和女子大のオープンカレッジで人見輝人氏が講座をもたれ、世田谷城下を歩くそうです。9月21日10時から11時。会員2000円、非会員3000円だったと思います。
興味のある方は是非!
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by hirainatsuko | 2006-05-26 11:09 | 民話・伝説


代沢の民話 

今日のお話は現在の代沢2丁目2・3番地あたりにあった大きな池でのお話なのですが、ここは明治の頃は下北沢村字会の辻(あいのつじ)という地域だったそうです。
しかし今回は現在の地名の代沢のお話ということで紹介したいと思います。

この池はとても大きく、この池の南端が「池尻」だったそうです。
池にはとても大きな魚が一匹いて、ヤマメに似ていたそうです。淡島のお灸がおこなわれたある日、東京の人が森厳寺に向かって賑わいを見せる中、その中の若い衆二人が池の魚をいじめていました。そこを通りがかった松之助という少年がその若い衆をたしなめ、(結局この若い衆に松之助は殴られてしまうのですが、)魚をかばいました。
するとその夜池の主の魚が夢にでてきて、松之助に礼をしたあと、秋に大水がでてこの辺り一体が水浸しになるということを教えてくれました。お陰で何十年ぶりといわれた北沢川の氾濫も、この村では被害が少なくて済んだそうです。

というお話でした。
みなさん、動植物は大切にしましょう!
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by hirainatsuko | 2006-05-24 18:05 | 民話・伝説


せたがやじんと一緒♪ in等々力

今日は等々力渓谷から善養寺へ行ってみようと思い旅立ちました。

まずは大井町線等々力駅に降り立ち、渓谷入り口のゴルフ橋へ。
ここには現在の等々力渓谷の気温が掲示されていて(ちょっと壊れてましたが・・・)、私が行ったときは多分23.9度と表示されていました。
等々力渓谷に訪れたのは何年ぶりか思い出せないくらい久しぶりだったのですが、改めて川のせせらぎと緑のきれいなところだなぁと思いました。途中渓谷の上を環八が走っていたので、ひょこひょこと階段を上って見に行きました。上に出ると普通に車がびゅんびゅん通っていて、まさかこの下に緑豊かな渓谷があるとは思えないほど、上と下とじゃ世界が違いますね。

その後渓谷を歩いていたら、野毛大塚古墳まで260メートルという看板が出てきたので、折角なので行ってみることにしました。私は野毛大塚古墳に小さい頃に行ったことがあるとずっと思っていて、今回もなんとなくイメージしていったのですが、これが思っていたのと全然違いました。おそらく初めて行きました(汗)
古墳自体思ったより大きくて、また埴輪が置かれていたりして、なんだか太古のロマンが感じられ興奮してしまいました。またここは公園が併設されていて、小さい子供たちが古墳のまわり、また古墳自体を駆け上ったり駆け下りたりして遊んでいました。私としては古墳が遊び場だなんてうらやましいなと思って見てました。
ちなみにこの野毛大塚古墳は、帆立貝式の前方後円墳で、墳丘は全体が多摩川の河原石で覆われています。後円部頂上から四基の埋葬施設があり、それぞれ出土品も見つかっています。この古墳は五世紀前半に構築された関東地方の中期古墳文化のもので、南武蔵の有力な首長の墓であるといえます(東京都の看板より)。そしてどうやらこの野毛大塚古墳は、副葬品や帆立貝式古墳ということから機内との直接的な関係が考えられ、在来系の田園調布古墳群の勢力と入れ替わる形で築かれたとみられるそうです。
ということで、やはり実際訪れてみると良いですね。もっと詳しく発掘調査の報告書などを読んでみたいなと思います。

再び等々力渓谷に戻り、今度は渓谷内にある横穴群に行ってみました。等々力渓谷の横穴群は、野毛大塚古墳などの後の時代のもので、古墳時代後期から奈良時代にかけて造られていきました。この横穴群は、野毛地域の有力な農民のもので、現在は三号のみ完全な形で残されているそうです。(都の看板より)
確かに一号、二号は看板しかたっていませんが、三号のみ中が見えるような形で保存されています、ただ穴の入り口にガラスが張ってあり、また中が暗いため、穴の中がどうなっているかは分かりませんでした。

次は等々力不動尊です。今では大分風流になってしまった「不動の滝」を見た後、階段をせっせと上ってご本堂に出ます。上がりきったところに、まだ新しい面白い形の舞台がありました。このお不動様は一年を通して行事が多いな、と思っていて、近くは5月28日に青葉祭があるそうです。そして私は等々力の民話を知ってから、一度ここの等々力囃子を聴いてみたいと思っています。

等々力不動の川を挟んで対岸に、新しく書院造の建物と日本庭園を含んだ敷地が公開されるようになりました。この書院造の縁側から腰掛けてみえる渓谷の緑はとてもきれいでした。

ここで等々力渓谷を後に、善養寺に向かったのですが、その前に等々力渓谷について少し書いておきます。
等々力渓谷は、武蔵野台地の南端に位置する延長約1キロの渓谷で、国分寺崖線に谷沢川が侵食してできた23区内唯一の渓谷です。昭和32年に風致公園として指定され、昭和49年に指定区域内の河川と斜面の一部を世田谷区立の公園として開園しました。以上、区の等々力渓谷パンフレットに記してありました。

最後に善養寺です。昔祐栄という僧がカヤの木の大木の元に霊場を開きまして、これが現在の善養寺の起こりとなります。
そしてまたこの祐栄は多摩川に渡し舟をつくり、この渡しを使って行き来する人々が、善養寺のカヤの木に別れを告げたり挨拶をしたりして親しみを持っていた、という話があります。
このかつては多摩川から見ることのできたカヤの木が、今はどうなっているのだろうと思い、今回善養寺に訪れた次第です。
それで、等々力渓谷から坂をてくてく上って善養寺に着いたのは良いんですが、大木がどうも見つかりません。寺の周りをうろうろうして、善養寺の敷地内では一番高いところ(この辺り坂だらけなんです。)に「都天然記念物 善養寺のカヤの木」という碑が立っていました。でもどうみてもカヤの大木は近くにありませんでした。この碑が立てられたのが昭和41年となっているのですが、その後カヤの木はなくなってしまったのでしょうか?善養寺は世田谷百景にも選ばれているようでしたので、カヤの木がどこかにあってもよさそうだったのですが・・・。

結局カヤの木を見つけることができず、そのまま多摩川にでてゴール!!
ここでどうやって帰れば良いんだ!?ということに気がつきまして、とぉぉぉくむこぉぉに二子玉川の駅が見えたので、そこを目指して歩けば着くかな、と思って歩き出したのですが、これがなかなか着きませんで、、。
結局野毛二丁目のバス停から、二子玉川の駅までバスに乗って帰りました。

以上約二時間半の旅でした。

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by hirainatsuko | 2006-05-24 16:09 | お散歩


代田の民話 その2

今日はダイタラボッチのお話です。

厳しい天候が続く中、その年は春になっても冷たい風が吹き付けます。そんなある日、暖かい日差しがさしこみ、遠く浅間山、日光山脈がきれいに見渡せました。そして不思議と男体山と浅間山の頂に物干し竿が見えるのです。誰かが巨人が洗濯をしているのだろうと言い、そんなことがあるものかといぶかしみながらも、みな戸をかたく閉ざして家に籠もってしまいました。その夜村中にとても大きな音が響き、みながこわごわ見てみると、巨人がせっせと田畑を作っているのです。一夜明け代田には大きなくぼ地ができ、水が湧き出るようになりました。次の日代田から夜目に見た巨人は、筑波山に腰をかけて浅間山の煙で火をつけ、煙草を吸いながら代田の方をみて笑いかけたそうです。

このお話も『改訂 世田谷の民話』からの引用だそうです。

ちなみに「代田」の地名も、このダイタラボッチから取られているといわれています。
柳田国男も、一時期世田谷の成城の方に住んでいて、この代田のダイタラボッチについて記しているそうです。(私はまだ読んだことがありませんが・・・。)
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by hirainatsuko | 2006-05-23 15:57 | 民話・伝説


代田の民話 その1

今日は代田の民話です。
代田といえば、ダイタラボッチに餅つきが有名ですが、今回は白蛇にまつわるお話です。


天候が不順な中、近くの小高い山が土砂崩れを起こしました。これでは作物が全滅だと思いながらも、なんとか徐々に地すべりをとめることが出来ました。
しかしその後、突然六郎次山が大きな地鳴りをたてて二つに裂けました。村人たちが一体どうなるんだと思いながら震えていると、どこからか白い大蛇がきて六郎次山に巻きつき、二つに裂けた山をしめつけました。すると地鳴りが止んでいきました。村人は六郎次山の主が守ってくれたと感謝したそうです。

このお話は『改訂世田谷の民話』からの引用だそうです。
この本(『世田谷を語る』)に昭和12年の代田の写真が載ってるのですが、どことなく今の喜多見あたりに雰囲気が似ているなと思いました。

次回はダイタラボッチのお話です。
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by hirainatsuko | 2006-05-23 15:28 | 民話・伝説


等々力の民話  その4

今回は「お不動様の貸し忘れ」というお話です。

等々力のお不動様は霊験あらたかで、江戸からも参詣人が多くきました。ある時目黒村に等々力のお不動様を貸したのですが、なかなか戻ってきません。そのかわり、目黒村以外で植えることを禁じられていた太い竹を根分けしてくれました。その後目黒村では竹が枯れていったのに対し、等々力では立派に成長しタケノコも育ちました。お不動様は等々力に青竹で帰って来たとのことです。

以上『せたがやの民話』から持ってきた文らしいのですが、『世田谷城下史話』によると、世田谷には江戸時代から「世田谷は七沢七谷八八幡、目黒不動に貸し忘れ」という言葉が残っているそうです。また『新編武蔵風土記稿』や他の資料にもこのことが取りあげられていて、ただ、「貸した借りない」という騒動の記録は残っていないそうです。ちなみに現在の等々力不動の作者は役行者と伝えられ、目黒不動は慈覚大師作と伝えれています、と記してありました。
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by hirainatsuko | 2006-05-19 10:49 | 民話・伝説

    

きょうどしか(志望)
by ooyama michiko
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