世田谷これまである記 -blog編-


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せたがやじんと一緒♪ in喜多見 with2回目コワクツさん

今回は念願の念願のっ、「喜多見」に行って来ました!!!
喜多見氷川神社と次太夫堀民家園は一回だけ行ったことがあったのですが、あとのところは初めてで、そして何より慶元寺の三重塔がある風景を見てみたくて見てみたくて、わくわくしながら行ってきました。
そして今回もまた瀬田・岡本編に引き続き、コワクツさんが参加してくださいました。しかも何と万歩計をせたがやじんに下さったので、今回は全行程何歩歩いたか!?というお楽しみ付きです。(注:ちなみに万歩計、折角せたがやじんにプレゼントしてもらったのですが、彼は通常ずっと浮遊しているので、代わりに私が付けさせて頂きました。以下ご了承くださいませませ。)

まずは前回同様二子玉川駅に集合。
その後今回は途中までバス移動としました。
玉川07系統or08系統に乗って「下宿」で下車。ここを出発地点として万歩計を0にリセットし、12時半スタート!

e0030922_13435779.jpgてくてく歩いて最初は喜多見の原風景とされている辺りを目指しました。途中喜多見小学校の前を水が流れていて良いなぁなんて思いながら歩いていましたら、なんとこの小川(?)の元に行き当たりました。どうやら人工的に水を湧かせている感じでした。珍しかったのでここで一枚記念写真☆





e0030922_13505033.jpgそんなことをしつつ、具体的には竹林のあるところを探していたのですが、これがわからない!住所は大まかに「喜多見三丁目付近」としか載っていませんで・・。でもうろうろと迷っている内に、それらしきところに出ました!しかも「竹林のある小経」と紹介されていたのですがここには私有地の看板が。しかし多分ここに違いない、ということで写真を一枚。きちんと竹が手入れされているよ感じを受ける場所でした。ちなみにこの写真、せたがやじんはちゃんと見つかりますか?
~ここまで1488歩。


e0030922_13574890.jpg次は諏訪神社に行きました。途中お米やさんがありまして、ここでは焼きおにぎりをやっている模様。今度是非食べてみたいなと心に刻みました。この神社は人もいない小さな神社だったのですが、きれいに掃き清められていました。コワクツさんが参道に榊が植えてあるっっと発見。確かに小さな榊が植わっています。
~ここまで1996歩(何だか年号みたいな数字ですね)。

ちなみにこのあたり(竹林~知行院)てくてくと歩いているところは「いかだ道」と呼ばれている道の一部です。かつて奥多摩の材木は、人口増大や火事の多い江戸市中にとってはとても大事な資源でした。奥多摩で切り出された材木は青梅辺りで筏として、筏師達が多摩川を下って運んできました。そして筏師たちが帰りに使った道を「いかだ道」と呼んだそうです。しかし幕末辺りには盛んだった筏流しも、交通の発達や水量の減少で大正頃には消えてしまいました。なので現在はわずかに面影を感じることができる程度です。

さてこの日午後からとてもいい天気で、気温もぐんぐん上がっていき、知行院辺りに来た頃には大分暑さにやられていました。そんな中スーパーを発見!これは涼んでいかねばっと入ってみました。スーパーASAHIYA。ここには世田谷産のトマト、小松菜、きゅうりの他に、世田谷ティッシュや世田谷ロールも販売していました。とてもジモティなスーパーでした。

e0030922_14192558.jpgASAHIYAさんで一休みして知行院へ。ここは喜多見勝忠が元和元年(1615)に建てた寺院です。喜多見氏の陣屋から鬼門の方角に、鬼門除けとして建立されました。ちなみにこの知行院の前には、かつて半農半商であった「城田家」があり、筏師たちが休息に利用したといわれています。ここのお寺さんはとっても立派で、中でも彫がとても豪華な印象を受けました。
~ここまで2579歩。

e0030922_14293970.jpg続いて今度は須賀神社へ。ここの社殿は神楽殿が前半部についているという変わった造りをしています。また区内唯一の「湯花(ゆばな)神事」を8月2日におこなっています。
~ここまで2919歩。
またこの神社の隣には竹林となっている「六天塚古墳」があります。この古墳は五世紀後半のもので、竪穴式の石室となっています。写真は六天塚古墳のものです。

e0030922_14384823.jpg次に稲荷塚古墳へ。地図の通り歩いたはずなのに、また見つからずにうろうろしていたら、慶元寺の三重塔が畑の向こうに見えたのです!!ををっこれが「慶元寺三重塔がある風景」だっ。と佇んでしまいました。けれどもまずは稲荷塚古墳ということとで、泣く泣くその場を離れ右折しました。が、なんだかんだと迷いましたが、結局稲荷塚古墳は私が三重塔をみて佇んだところから右折せずにまっすぐ十歩ほど歩いたところにありました。~いやはやここまで3780歩。
稲荷塚古墳は七世紀のもので、横穴式石室です。圭頭太刀などの出土品がありました。この古墳は農地の開発によって削られ、石室が露出していましたが、葺き石が落ちて石室を覆っていたため、盗掘を免れることができました。本を見た時は農地の中にこんもりと古墳があったのですが、現在は公園の中にあって、ここでは何人かの人が草むしりなどの整地をしていました。
ちなみに区内のほかの古墳は全て多摩川の左岸台地縁辺にあるのですが、この喜多見古墳群は立川面という低い段丘の上にあります。後期に属する小円墳です。

そして次は念願の慶元寺です!!
先ほどの風景をとくと味わいました。ここは地域風景資産に選定されているので、何か活動している団体がいらっしゃると思います。畑の中に三重塔が見える風景はなかなか素敵だなと思いました。
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このお寺は1186年に二代目江戸重長が建立したといわれています。境内はとても広く、参道も本堂もとても立派でした。三重塔もライトアップできそうな雰囲気がありましたね。
~ここまで4605歩。

三重塔をみながら、今度は喜多見氷川神社へ。地図で見ると慶元寺とは道を挟んで隣の敷地なのですが、寺の参道が神社とは反対方向のため、ぐるっとまわっていかねばなりません。
e0030922_15274624.jpgここの二の鳥居は、江戸重恒・重勝が寄贈したものだそうです。一の鳥居から見てちょうどすっぽりその中に、二の鳥居がおさまるサイズになっていていました。境内には祓戸なるものがありました。コワクツさんにこれは何ですかと尋ねると、祭りの準備、清めをするところだという説明をしてもらいました。喜多見氷川神社は、節分の「鬼問答と大黒舞」が有名で、ぜひ一度見てみたいと思っております。
~ここまで5695歩。



e0030922_15343548.jpgさて次は、また知行院のあるところまで戻って、宝寿院目指して歩きました。この辺りからもう日陰しか歩けないほど太陽光にやられていました。このお寺さんは境内に草木がきれいに植わっていて、今の時期はてっせんが見頃と見てきたのですが、見つけられませんでした。枝垂れ桜の写真がきれいで、また藤棚もきれいに植わっていました。
~ここまで7900歩。


そして今回最後のポイントである次太夫堀民家園へ。野川からひいてある復元された次太夫堀を歩きながら母屋へ。鴨が結構いました。
ここの民家園には安藤家、加藤家、城田家の母屋が復元されていて、そのうち城田家の母屋は二階に上がることもできました。窓から入ってくる風が気持ちよかったです。
~城田家母屋まで8800歩。
またここはラムネも1本80円で売ってました。なので母屋の前の椅子で、持参した駄菓子を食べながら一休み。一度座ったらもう動けないんじゃないかと思ったんですが、何とか立ち上がり次太夫堀民家園をぐるっとまわってみることにしました。ここは母屋の復元の他にも、田んぼがあって、今の時期とても青々としていて素敵でした。また虫網と虫かごをもった男の子の親子がいて、世田谷って広い・・・と思いながら散策。雰囲気は完全に田舎での夏休みという感じでしたね。とても楽しかったです♪
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さてゴールのバス停「次太夫堀公園」到着はおおよそ4時半。
万歩計は11580歩。一万歩超えました!!万歩計の名に恥じないだけ歩けました。
今回はなんと言っても、暑くて暑くて溶けそうでしたが、無事に喜多見散歩行って来られました。
念願の喜多見、とっても楽しかったです。
瀬田・岡本に引き続き、貴重な休みを返上し今回も参加してくださったコワクツさん、本当にありがとうございました。何やらその前にはお一人で、自転車飛ばして上野毛の辺りを走っていたというお話も・・・。これは世田谷マニアな仲間が一人できたんではないかと、密かに嬉しく思っています(笑)。またお付き合いくださいね~。
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by hirainatsuko | 2006-06-30 12:26 | お散歩


地域提案型雇用創造促進事業

なんだか難しいタイトルになってしまいましたが、先ほどgmailをみていたら脇にこんなトピックスが載っていたので、クリックしてみました。そうしたら日本商工会議所のHPにとびましてこんな文面が。以下まとめるのも面倒なので貼り付けちゃいます!


◆ 地域提案型雇用創造促進事業1次採択案件を決定(厚生労働省) (2006.6.30)


 厚生労働省は29日、地域提案型雇用創造促進事業(パッケージ事業)の平成18年度第1次採択分として、全国31地域(36市町村)の事業構想を採択した。今回、採択されたのは、飯山市(長野県)の「地域資源(森林・温泉・食農)を活かした健康増進型の観光による地域再生」、橋本市(和歌山県)の「日本一のパイル織物・紀州へら竿産業の再生による地域産業創出と雇用機会の増大」、岡山県新見市の「かのさとにいみ地域ブランド育成・雇用促進事業」など。観光振興、ものづくり支援、地域ブランド育成など地域資源を生かした構想が多くなっている。採択地域では、「商品開発研究」「販路拡大に向けた専門的な知識やノウハウ」などの企業人材育成や技術指導、ヘッドハンティングなどによる人材の誘致や公募などの事業、地元求職者に対する資質向上のための「セミナー開催」、「求職者情報提供コーナー」「求職者相談コーナー」の充実などの事業を実施し、雇用創造を目指す。同事業の事業額の上限は2億円で事業期間は3年。昨年度から実施している地域は66カ所で、今後は、地域再生計画の認定スケジュールと合わせて2次採択分の審査が行われる。
 詳細は、同省のサイトhttp://www.mhlw.go.jp/houdou/2006/06/h0629-2.htmlを参照。

   まちナビhttp://www.jcci.or.jp/machi/
   ものナビhttp://www.jcci.or.jp/mono/
   観光ナビhttp://www.jcci.or.jp/kanko/
   地域のブランド戦略http://www.jcci.or.jp/mono/JB.html
   地域振興関連施策公募情報http://www.jcci.or.jp/category/area.shtml


で、この観光ナビというのを見てみたんですが、ここに各地のご当地検定情報というのが載っていて、これが結構あって面白そうだなぁと思いました。
やはり名だたる観光地が多いのですが、京都でもジュニア京都検定などがあったり、また茨城にもご当地検定(「いばらき何でも知っとこ検定」)がありました。現在認定者数17人だそうです(受験者20名)。あとは明石・タコ検定というのもあって、これはお魚通を目指すものらしいのです。模擬チャレンジできるところがあってやってみようと思ったのですが、問題文読んで何を言っているのか分からずやめてしまいました(汗)こちらは明後日7月2日開催だそうですよ!
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by hirainatsuko | 2006-06-30 12:11 | その他


せたがやじんと一緒♪ in用賀駅周辺

今日は用賀の地名の由来になった「喩伽山真福寺」に行ってみようと思い、田園都市線用賀駅にて下車。

真福寺の前に、まずは用賀神社へ行ってきました。
e0030922_16381571.jpgこの神社は、かつては秋祭りの時に若衆が獅子頭を担いで村中を練り歩き、また境内で獅子合わせという行事をしていました。しかし現在ではお神輿が主体となり、獅子頭は社殿の前に飾られるだけとなったそうです。
ここの神社も(前回行った玉川神社もそうでした。)、かつては天祖神社といっていましたが、明治41年に周辺の神社を合祀し、地名をとって用賀神社としたそうです。明治41年には何か令が出たのですかね。
ちなみに拝殿の賽銭箱は扉が閉まっていて、扉には穴が開いていて、そこから管が伸びて賽銭箱にお賽銭が入るという面白い仕組みになっていました。またここも鈴が置いてありました。
現在の社殿は昭和52年にたてかえたそうです。また一の鳥居や用賀神社と書いてある碑は昭和33年のものでした。ちなみにこの碑の裏には「玉川用賀」という地名が書かれています。これは世田谷区が昭和7年にできる時に、世田谷町・松沢村・玉川町・駒沢村とあったのですが、これが合併する時にもめまして、結局世田谷区という名前になると決まった時、玉川町としては「玉川」という地名がなくなってしまうのが残念だと言うことで、当初玉川町に属していた地域の地名の頭に「玉川」というのをつけたと言います。この玉川用賀もその一つだと思われます。
さて話が長くなりましたが、境内には「大六天力石」というものがありました。他にも「戦□紀念碑 陸軍中将柴五郎書」という碑もたっていました。柵には「昭和参年 御大典紀念」とあります。何でここに柴五郎が関係あるのかが分かりませんが、この碑の裏には、西南・日清・日露・韓国守備にて命を落とした用賀村の人の名前が書かれています。ちなみにこちら側は大正8年となっておりました。

e0030922_1651546.jpg次は真福寺です。室町時代、小田原北条氏の家臣である飯田帯刀の子、図書によって開基されたお寺で、飯田家の菩提寺となっています。飯田家は用賀村を開墾し、彦根藩世田谷領の代官を二代務めましたが、二代目の時に年貢を納めなかったため代官職を辞めたみたいです。




e0030922_1646719.jpgそしてここは用賀の地名の由来ともなっている「喩伽山」です!山門のところにちゃんと額が飾ってありました☆
またここは旧大山道から参道が延びていて、大山道のところに「喩伽山真福寺」の碑がたっていました。






今度は用賀商店街(旧大山道)を通って一旦駅に向かいました。というのも、用賀をモチーフにしたお菓子を売っている和菓子屋さんとかないかなぁ、と思いながら歩いたのですが、結局亀屋万年堂さんをみつけただけで、地元のお菓子屋さんは見つけられませんでした。

e0030922_1714179.jpgまた、ここの商店街沿いに酒屋さんがあったのですが、ここの建物が渋い!そして蔵づくりの姿の建物を残してある!!ということで写真に撮ってきました。この前行った中里商店街(旧大山道沿い)にも古い姿をした商店があったので、大山道沿いには今もこういう建物が残っているのですね。



用賀駅からは、砧公園に続くいらか道(プロムナード)を少し歩いて無量寺へ。このプロムナードには百人一首が刻まれているのですが、自転車が駐輪してあって、読めないところも多々・・・と思っていたら、帰りには世田谷区が違法駐輪を片っ端からトラックに積み込んでいて、あな厳し、と思いながら隅の方を歩いてました。

e0030922_1792061.jpg無量寺は用賀観音という名で知られています。というのも、天正年間に観音様が品川の漁師の網にかかり、その観音を用賀の住人である高橋六衛門がお告げによって当寺に納めたと言われているからです。この観音様は十二年に一回午の年に開帳されます。
また写真の左に写っているのが、世田谷百景の一つ「無量寺の大イチョウ」です。

e0030922_17155642.jpg最後に用賀駅の上に立っているタワー、SBSに行ってみました。地下と1階(2階も?)には店舗が入っているのですが、それより上はオフィス階となっていて、まるでキャロットタワーのようです。しかしこちらは27階!キャロットタワーより階数がありました。しかし展望フロアはありませんと書かれていました。残念。またこの建物に入っている「優文堂」という本屋さんに『歩く世田谷21』が飾ってあって、「世田谷本屋大賞受賞」と書いてありました。世田谷本屋大賞?そんなものがあるのですね。ちなみにここの店員さんは世田谷ライフの名前が入ったエプロンを着用。世田谷色の強い本屋さんです。なので私も『地元の書店が作った世田谷便利マップ!世田谷区』を買ってしまいました。バスの路線図が嬉しいです。

以上用賀駅周辺散歩でした。天気が良くなったら百人一首を読みながら、砧公園までお散歩してみるのも良いですね。

参考資料
『せたがやの散歩道』
『続・せたがやの散歩道』
『改訂・せたがやの散歩道 一歩二歩散歩』
区の看板



~おまけ~
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馬事公苑通りにはこんなものがありました。
ちなみに道やガードの支柱には馬のひづめもかたどられています。
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by hirainatsuko | 2006-06-23 16:37 | お散歩


SNS お散歩ツアーvol.0 反省会

この間のお散歩ツアーの反省会なるものを21日におこないました。
「反省会」って名前が怖いので、「明日につなげる会」にしようと思ったのですが、これはこれで怖いかなって思ってただいま名前考慮中です。

さてさて前回行って思ったのは、雨だとやはり疲れるっということですね。
そんな中、付き合ってくださったお二方には本当に感謝です。
雨だったらコース変更して、郷土資料館で遊ぶ、という風にしても良いのではないかというお話も頂きました。

また、少人数制での喋りの練習が必要かも・・。と思いました。
今回、例えば話すときのタイミングをどうしようどうしよう・・と思ったりしたのですが、これはバスガイドさんがよく持っている「旗」を使えば良いんだ、ということになりました。旗が挙がると、なんとなくみんながあの人話すんだな、という意識になるから。だからせたがやじんに旗を持たせて、そのせたがやじんを挙げて注意を喚起してみる、、とか可愛いな。

あと、間が持たない・・・。ということにも関連してくるのだけど、普遍的な確固たる知識は、音声をつくって、音声ガイドとしてみんなにきいてもらうというのも楽しいかもしれない。という話にもなりました。音声ガイド作ってみたいなぁ。

他にも、いろんな人を連れて歩くシュミレーションをしてみると良い、とのことでした。
子供づれや、乳母車をひいた人や、もっのすごく詳しい頑固なおじいさんとかとか。

それで、やはり最後にまとめてみると、喋り方(伝える力)の練習がいるなということと、あと私自身の(テーマの)確立がポイントだと思いました。
ということで、今度横浜市がおこなっている案内ガイドボランティアを申し込んで、ガイドというものを体験して来たいとおもいます!
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by hirainatsuko | 2006-06-23 12:28 | お散歩


SNS お散歩ツアーvol.0

6月18日の日曜日に、世田谷つながりの「世田谷観光案内所コミュニティ」で唐突に参加を呼びかけた、お散歩ツアーをやってきました。

当日雨天決行ということで、9時に世田谷線三軒茶屋駅に集合。
参加者は、かつぞうさんとほづみん!さん。
もう一人スギモトさんも参加なさるというお話でしたが、朝9時集合は無理だということで不参加。結局私を含めた3名で行って来ました。

最初は世田谷の紫陽花寺といわれている(らしい)教学院へ。
不動堂の脇の道が確かに紫陽花できれいでした。
ここは江戸五色不動の一つで、目青不動と言われています。江戸五色不動というのは、三代将軍の家光公が江戸の泰平を祈願して、江戸の主だった不動様に五色の色を配色したそうです。この目青不動はもともと江戸城内の紅葉山というところにあったのですが、その後場所を転々とし、途中で小田原城主大久保家の菩提寺ともなり栄えました。この太子堂の地にやってきたのは明治になってからです。境内の端(世田谷線寄り)には、馬頭観音碑も建っています。これは明治期に池尻三宿あたりに兵営がつくられ、病気になった軍馬などを慰めるためにつくったそうです。またこの目青不動ですが、中井英夫著『虚無への供物』にも、推理の鍵として登場するそうです。私は読んだことがないので、今度是非読んでみたいと思ってます。またこの本は日本ミステリー史上三大奇書ともいわれ、反推理小説(アンチ・ミステリー)といわれているそうです(世田谷文学館『あの名作の舞台』より)。

次に世田谷線西太子堂駅からキャロットタワーをみてから、旧鎌倉道を少し経て烏山緑道に入りました。烏山緑道はもともと烏山用水路で、それが暗渠化して現在の形になっています。世田谷には大きく、用水路が5つあるのですが、烏山用水もその一つです。江戸幕府ができる前からつくり始めた次太夫堀こと六郷用水が多摩川から引水しているのに対して、北沢用水、烏山用水、品川用水、三田用水は玉川上水から引水をしています。この烏山上水は宮坂からの150メートルが「万葉の小道」として整備されているらしく(今回は行きませんでした)、ここも紫陽花の見所スポットとして紹介されていました(『一歩二歩散歩』より)。

烏山緑道は環七まで歩いて、その後世田谷線若林駅を通り抜け松陰神社へ。ここは言わずもがなの吉田松陰の墓所があります。もともと吉田松陰は小塚原で処刑された後、回向院に葬られているのですが、その後高杉晋作らの門弟によってこの毛利の抱屋敷(現在の松陰神社)に遺体を移されています。しかしその後幕府の長州征伐が始まり、この屋敷も召し上げられてしまいます。結局明治の15年になってから木戸孝允らによって小さな祠が立てられ、現在の社殿ができたのは昭和に入ってからです。
ちなみに吉田松陰の墓所入り口にある鳥居には木戸孝允の名が入っています。

そのまま広沢真臣・桂太郎の墓を横目に通り過ぎ、勝國寺へ。途中の国士舘大学にはモスバーガーが入っているとの事!(←ほづみん!さん情報。)いいなぁ、ハイカラだなぁ。
勝國寺は、五代目吉良政忠が建てたお寺で、世田谷城の鬼門に当たるために建てたそうです。また世田谷城に対して高台ともなるため、防御施設としての意味もあったのではないかと思われます。ここには薬師如来が安置されています。この薬師如来は戦災を免れるために土中に埋めていて、これを掘り返した時に、如来像の首がかたかたいっているのでひねってみると、中から正徳二十年の文書が出てきたそうです。この文書には、当時の信仰の様子や家康公の寺領寄進について書かれているものとのことです。
 
ここで簡単に世田谷の吉良氏について書きますと、現在の愛知県にかつて吉良庄がありました。ここには矢作川が流れていて、川の西側を西条吉良、東側を東条吉良といいました。吉良氏は源氏足利の血を引いているため、室町時代には要職につき、東条吉良の出である吉良貞家は奥州管領となります。しかしその後衰退の危機にさらされ、治家の時に関東に呼ばれ以後鎌倉公方に仕えます。その後武蔵の世田谷の地に土着し勢力をもちます。中世末期になりますと、婚姻関係にもあった後北条氏が滅亡し吉良氏も共に敗れます。江戸時代では蒔田という名乗りで幕府に仕えますが、西条吉良氏が赤穂浪士の事件によりお取り潰しになった後は、この東条吉良が吉良氏を名乗ります。
以上簡単にまとめてみました!
 
再び烏山緑道に入りちょこっと歩いたら、また路地へ。今度は世田谷城址公園をみつつ豪徳寺へ。豪徳寺はこれもまた有名な井伊直弼の墓所があり、井伊家の江戸の菩提寺となっています。もともとは先ほど出てきた吉良政忠がおばの為に造った庵で、弘徳庵といいました。この頃を伝える宝篋印塔が残っているとの事ですが、どこにあるのかがわかりません。。
また今回訪れたら、境内に真新しい三重塔が!この間の五月に完成したみたいです。屋根の下には猫の彫り物もありました。あと、梅も売っておりまして、一袋300円。太子堂商店街の大久保さんでも350円だったので、かなり安い値段みたいです。
そして一般公開はなされていないそうですが、ここには東京三大茶室の一つである「種月庵」があります。井伊直弼遺愛の茶室だとか・・・。

その後宮坂の駅に出て、世田谷線旧型車両の江ノ電601系に乗り込んできました。ここでやっと座れて一休み。もう世田谷線に旧型車両が走ることはないのかなぁ。

次に宮坂の駅名にもなっている世田谷八幡へ。ここの神社の脇にある坂が地名の由来とのことですが、小田急線を開通するときの工事で、この坂はだいぶ緩やかになったそうです。
ここ世田谷八幡は、源義家が後三年の役に際し寄り造営したという話が伝えられていますが、実際は吉良頼康の頃に建てられたのではないかと言われています。ここの奉納相撲は有名で、かつては江戸三大奉納相撲に数えられていました。現在も秋の例祭時には奉納相撲が行なわれていて、境内には立派な土俵があります。またこの神社は、狛江出身の鬼五郎左衛門がとても相撲に強く、鎌倉八幡宮でおこなわれた相撲大会で見事優勝し、鎌倉八幡宮からご神体を勧請させて貰ったという話も伝わっています。

最後は勝光院に行きました。ここは竹林がとても素敵です。吉良家の墓所で、七代目吉良頼康のおくり名をとって寺院名としたそうです。
また境内には釣鐘があります。この鐘は、戦時中兵器とするため徴収されましたが、その後無事葛飾のお寺に保護され、昭和52年に本寺へ帰ってきたという経緯をもっています。
「火蛇の爪」伝説も伝えられています。

そうして歩いて上町の駅に出、ほづみん!さんの案内で、世田谷線の見えるベトナム料理「サイゴン」にて昼食をとりました。サイゴン着が11時20分。お疲れ様でした~。
(ちなみにサイゴンは11時30分オープンです。)

感想・反省会は次の回に~。
ちなみにここに書いたのは、今現在私の知っている全知識で、これを強化させるとともに、どうしたらもっと伝えられるか、、ということを考えたいです。
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by hirainatsuko | 2006-06-20 16:44 | お散歩


せたがやじんと一緒♪ in瀬田・岡本 withコワクツさん

6月16日に、瀬田・岡本エリアを散歩してきました。
天気が心配されましたが、ほとんど傘をささないで歩くことができました。
そして今回はなんとっ、ゲストが来てくださったのです!!神奈川県在住のコワクツさん。
なので、今回はせたがやじんと人間二人の珍道中と相成りました~。

まずは二子玉川駅に集合の後、お昼を食べて、玉川大師へ出発しました。
ここは奥の院が地下霊場になっているお寺さんです。参道約100m。真っ暗なところもあって、修行場なんだなと思わせる厳かさがあります。
前回(in玉川)も訪れたお寺なのですが、せたがやじんが、是非コワクツさんにも体験して貰いたいと推すので、今回最初に訪れてみました。(注:しかし実際は悲しいことに、せたがやじんは地下霊場には入ることができません。。)なので人間二人が地下霊場を参拝してきました。私は二度目ということもあって、そこまで未知の世界ではなかったのですが、それでもやはり何も見えない道を歩くというのは、視覚以外の感覚が鋭くなって日常とは違う世界を体感しますね。

e0030922_1253697.jpg次に玉川神社を目指して歩きました。
そうしたら途中に、「参議院速記者養成所」なるものが!こんなところにそんな面白いものがあるんだっっと思い、せたがやじんが記念撮影。一体どんなことしてるんでしょうね。ちょっと気になりました。




e0030922_12204881.jpgこのあたりは国分寺崖線ということもあり、坂が多いのですね。それにも関わらず私は迷ってしまいまして、さんざん坂道を通った挙句、結局途中から案内役を放棄してコワクツさんに地図を見てもらう始末。そんなこんなで辿り着いた玉川神社。ここはコワクツさんも行ってみたいと言われた神社で(おそらく普通の人は存在すらあんまり知らないと思うのですが)、高いところにある立派な神社でした。コワクツさんは屋根の葺き方をみて、立派だ立派だと仰ってました。一体何が立派なのかと尋ねますと、平葺き・棒葺きについて教えてくださいました。玉川神社の屋根を見ていただくと分かるのですが、屋根の真ん中からもう一つ屋根が生えている(?)のですね。これが棒葺きらしいのです。逆にこれがないのが平葺きで、格としては平葺きの方が高いらしいのですが、棒葺きの方が工賃がかかるとのこと。またこの神社は狛犬が三対も並んでいて、しかも注連縄がしてあり、聖域の度合いが高いそうです。いや~勉強になるなぁ。(というかこの説明であってるのかどうか心配です。)
また玉川神社、実は世田谷には二つありまして、この瀬田の玉川神社ともう一つ等々力にも玉川神社があります。瀬田の玉川神社は、この地域の郷士である長崎四郎左衛門が江戸初期に社殿を造営したと言われています。そして明治41年に御嶽神社から玉川神社と改称したとのことです。ちなみに等々力のほうは、吉良頼康(中世末期)が熊野神社として建てたのが始まりだそうで、ここも明治41年に玉川神社と改称したそうです。関係としては等々力のほうが瀬田の玉川神社の本社にあたるそうですが、なぜそういう関係になったのかは分かりませでした。

その後玉川神社の隣にある慈眼寺に寄ってから、岡本の方へと歩きました。この慈眼寺は見るところは少なかったのですが、いわれとしてはこんなことが伝わっています。
この寺も長崎四郎左衛門が開基した、長崎家の祈願所なのですが、本尊の胎内に長崎家の系図が納められていると言われています。しかし家訓に「いかなる親族であろう系図を見ることは一切許さず」と伝わっている為、この長崎四郎左衛門は不詳な点が多いと言います。

丸子川(かつての次太夫掘り)沿いにてくてく歩き、岡本の静嘉堂文庫へ。ここは旧三菱財閥の岩崎弥之助・小弥太親子によって集められた和漢の典籍が9万冊納められています。また美術館も併設していて、今回は行かなかったのですが、現在は「静嘉堂の名刀 五畿七道・千年の流れ」を展示しています。(7月23日まで。月曜休館。)
e0030922_136268.jpgまたこの静嘉堂文庫の敷地は緑が深く、散策にはもってこいです。左の写真は静嘉堂の緑に隠れたせたがやじんです♪










そして今度は隣にある岡本民家園に行きました。ここはかつては蛍の飼育をしていたのですが、現在はもうしていないとのこと。しかし自生はしているそうですよ。
ここはシルバー人材の方がいらっしゃって、私たち一行が行った時には七夕祭りの飾りを折り紙で作ってらっしゃいました。ここで、人懐っこいコワクツさんがおば様たちに「手伝いますよ~」と言って、折り紙教室が始まりました。さすがコワクツさんっ見習いたいです。しかもおば様方に、せたがやじんを紹介して、こんな良い所が世田谷にはあるのだから、もっとたくさんの人に知ってもらいたいあぁと思ってるんですよ。と言ってました。私の役目なのに、本当ありがとうございます。感謝感謝です。

e0030922_13243436.jpgちなみにせたがやじんはとっても可愛がってもらって、今度の七夕祭りにも連れてらっしゃいよ、と言ってもらいました!!ぜひぜひ今回教えてもらった折り紙の飾りを持って、行かせて貰いますっっ☆





そして岡本八幡神社を経て一路二子玉川の駅へ。
私は今回知らずに、帰ってきてから教えてもらったのですが、岡本八幡神社の階段のふもとには、松任谷正隆・由美夫妻が寄贈された石灯籠があるらしいのです。ちゃんと名前が入っているとのこと。チェックできませんでした~。

二子玉川で一休みして、最後に行善寺に行きました。もう少し天気が良かったら山々が見えたかもしれませんが、、、。でもほんのり夕焼けできれいでしたよ。
帰りは、田園都市線が地下にもぐるトンネルのあたりに架かっている歩道橋から、電車をながめ手を振りつつ、手を振るのにも満足したら駅に戻りました。およそ午後六時。



六時間のお散歩、お疲れ様でした。
コワクツさん、お付き合いくださり本当にありがとうございました。
ちなみにここに掲載されている写真もコワクツさんが撮ってくださったものです。
やはりせたがやじん以外にも、一緒にお散歩してくれる人がいるととっても楽しいです。
またよろしくお願いします!!

以上瀬田・岡本散歩でした。
本当は喜多見の方にも行ってみたかったのですが、それはまた今度で行ってみます。
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by hirainatsuko | 2006-06-20 12:03 | お散歩


深沢の民話 その2

今回は深沢の農業と関わるお話です。

日照りの続く年、貧しい農民の伊之助が家のほうに歩いていると、秋山の森で火が燃えているのを見つけました。山火事になったら大変だと思い、火を消しに行こうとしたら木につまずいて転んでしまいました。そして起き上がったら火はもう消えていました。きつねに化かされたかと思って家に帰ると、伊之助の着ていた股引がぬれているのです。伊之助は不思議に思い、翌朝また森の転んだところへ行ってみると、そこには湧水がありました。この水を呑川まで引けば、どんな日照りでも大丈夫だ、とおもった伊之助はせっせと堀を掘りました。そしてこの堀はその後伊之助堀と呼ばれるようになりました。

このお堀は今はもうないのでしょうか。いつまであったのですかね。
いままで農業に関する昔のお話がたくさんありましたが、どれも江戸時代から震災前や戦前までは、一貫して身近なお話だったのだろうと思います。世田谷でこういうお話が身近に感じなくなったのは、宅地開発がおこなわれ始め、農地がなくなっていった頃からだと思われますので、およそ100年前まではこういうお話がいきていたんだろうと思います。
逆に言えば、その後100年で作られた民話というのはあまり聞きません。またこれから100年経てば、現在の世田谷の様子も民話として残されるのでしょうか。


以上これにて『ふるさと世田谷を語る』シリーズからの民話・伝説は一通り紹介できました。
この後は『せたがやの民話』などから重複部分を抜かして紹介して行きたいと思います。
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by hirainatsuko | 2006-06-13 17:07 | 民話・伝説


深沢の民話 その1

今回は深沢のお地蔵様のお話です。

昼でも鬱蒼としていた秋山の森のはずれに、せまい四辻があり、そこにはお地蔵様が立っていました。むらの子供たちは、このお地蔵様に手を合わせたかと思うと、近くの木に登り小便をして滝のようだと言って面白がっていました。いつもここを通って神田や青山の市に野菜を運んでいた和助じいさんは、子供たちを見て罰が当たると思い、地蔵様の周りに子供が入れないように柵をしました。ところがそれから和助じいさんは病気になってしまい、そのうち夢にお地蔵様がでてきて、私は子供が好きだから柵を取ってくださいというのです。そこで柵を取ると、和助じいさんは元気になり、子供たちもまた地蔵様の周りで遊ぶようになったと言います。

以上小便地蔵のお話でした。
『ふるさと世田谷を語る』にはこの小便地蔵の写真が載っています。これをみると今では立派な堂に入っていて、小便をかけられる事もなさそうです。
しかしお地蔵さんも、善意でつけてくれた柵なのに、和助じいさんを病気にするとは、、、。いやはや。余計なことをした罰ですかね。
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by hirainatsuko | 2006-06-13 16:38 | 民話・伝説


せたがやじんと一緒♪ in成城

11日(日)に、小田急線の成城学園前駅を中心にお散歩をしてきました。
そして今回は『歩くせたがや21』をそのまま踏襲したお散歩コースでした。というのも、成城って何があるの・・・?という状態で、事前に何も調べもしないという横着な心構えだったので、オリジナルな所は何も持たずに出かけて行きました。ただ、以前から聞いていた、夏には蛍がみられるという神明の森は、どんなところか見てみたいな、という期待だけは持って出ました。

まず成城の駅から南口に出てみました。成城の駅前は(南北とも)街路樹として桜が植えられているので、桜並木がすばらしいと聞き行ってみました。ただ季節的にもう新緑の時期も過ぎてしまったせいか、桜並木の存在はひかえめでした。また春桜の咲く頃に訪れてみたいと思います。
あともう一つ、成城の町には「角」がないということをどこかで聞き、それも見てみたいなと思っていました。この町は成城学園を中心に考えられている町なので、子供の安全を考えて交差点などで「角」をなくしているそうです。はたしてどうなのかと歩いてみますと、確かに角が丸い(・・気がするの)です。でも、どこの町もこんなんではなかったっけ?などとあやふやにかんがえていると、なんと何箇所か本当に「角」がないところがありました!つまり、塀の角が斜めに切られているのです。なるほどこれは確かに角がないなぁ、交差する道路も見渡せるし安全だな、と思いながらてくてく歩いていました。
そこからまた駅の方向に歩き、「富士見橋」を見に行きました。ここはせたがや百景の一つで、晴れた日には富士山が見渡せるらしいのです。そして橋には、その眺望が一枚の絵になるように、景色の説明がついた枠がついていました。結構大きい枠です。このデザインをなさった方の話を読んでみると、この橋が架け替えられたのが2004年のことだそうで、まだ新しい橋なんですね。小田急線の上にかかっている橋なんですが、このデザインした方も言っているように、周りにある小田急線の天蓋が結構気になるのでして、橋から周りを見ると、このコンクリートの広場(天蓋の上にあたる)は何なのだろうと不思議な感じがします。
次にまた南方向に戻って、成城三丁目の緑地を二箇所巡りました。(本当はルートとしては富士見橋に行く前に寄るはずだったんですが、住宅地を歩いていたら迷って先に橋に出ちゃいました。)一つ目は「成城三丁目こもれびの庭市民緑地」です。ここはせたがやトラストの管理になるのですが、おお、ここ他人の家ではないの!?という感じの入り口と庭で、さすがトラストという感じでした(?)。二つ目の「成城三丁目なかんんだの坂市民緑地」もトラストの管理で、ここは竹の印象的な雑木林でした。坂とあるだけあって急斜面で、私は十数段降りたら引き返してしまいました。ここは市民緑地をつくる活動があり、次回は6月25日に階段整備をやると掲示してありました。
ちなみにこの二つの緑地を行く途中に、せたがや百景のひとつ「成城3丁目桜ともみじの並木」がありました。住宅地の脇に木々の茂る小道があり、春と秋には桜と紅葉が見られるそうです。ただ私が行ったときは緑が深く、ちょっと暗くて怖い印象もありました。
この後、今度は富士見橋より一本西に架かっている「不動橋」に行きました。ここから西(富士山方向)を眺めると、先ほどの天蓋がなくなって小田急の線路が見えるのですが、線路が見えて電車が走っているのが見えるほうが私としては良いなぁ、などと思いながら橋を渡りました。
そして橋の名前にもなっている「喜多見不動」に行こうと思って『歩くせたがや21』の地図をみたのですが、、、ここに通じる道がないのです。一体どうやって行くんだ・・まさか小田急線から飛び降りる訳じゃないだろうし。ということでうろうろしました。文章を読むと高台にあるような言い方なのですが、地図にある方向に行きそうな道はどうみてもものすごい下り坂なのです。それでも違っていたらこの坂また上らなきゃいけないのか、なんて思いながら坂を下ると、坂のふもとの脇に喜多見お不動さんを発見!しかも、ここにはかつて来たことがある・・・と思い出しました。あの時は区内の庚申塔をめぐるというツアーで、途中ここに連れて来てもらったのでした。いやぁ道順が変わると分からなくなるものですね(汗)。
ここは明治の初めに建てられたそうですが、その頃はここはまだ喜多見といっていたことがわかります。このお不動さんは、冬至の日におこなう星祭が有名で、何故かかぼちゃに「真田幸村」と、あと自分の名前生年月日を書くそうです。厄除けのお祭りで、このかぼちゃは護摩壇に供えた後近くの川に流すそうです。境内には滝も流れていて、またすぐ横を小田急線が通り抜けるのも印象的でした。ちなみに高台というのは、本堂にいくのにまた階段を上りきらなくてはいけないということでした。
はてさて次は、期待の神明の森に行くぞ、と思ってまた地図を見たのですが、どうやらある程度敷地があるらしい、、ということが分かったので、まずどこか端に辿り着こうと思って歩いて行きました。結果を言いますと、本当に神明の森の端を外から見て終わってしまいました。この神明の森は世田谷区特別保護区に指定されていて、中に入ることはできない、ということは知っていたのですが、中にある遺跡の説明や、この森についての何か解説などをみたいなと。また森というから、森ってどんな感じなんだろうと期待に胸を膨らませていたのですが、私が見たところは、柵にかこまれた緑地という感じでした。一周回ってみれば良かったのかもしれませんが、大分体力が残っていない状態でしたので、めげて立ち去りました~。ちなみにここもせたがやトラストが管理しているところなので、帰ってHPで確認したのですが、一般公開はしていないそうです。
最後に「旧猪俣邸」を訪れました。ここもせたがやトラストが管理運営をしているところで、解説をしてくれるボランティアの方がいらっしゃいます。その方のお話によると、この建物は猪俣猛氏ご夫妻の隠居邸宅として建てられたもので、建築家が吉田五十八という方です。この吉田氏は建築家で初の文化勲章を受けた方で、他の有名な建築物としては、大阪文楽座、成田山新勝寺大本堂など、また区内では五島美術館も吉田氏の建造物です。この邸宅を建てる際も、一度全く同じ大きさで人がちゃんと住める家を造ってから、それを壊してこの猪俣邸を造ったという徹底振りです。いやはやすごい。ちなみにこの邸宅は築38年と比較的新しいなと思ったのですが、文化財には築50年以上でないとなれないらしいです。
邸内は茶室も二つあり、どちらも良い雰囲気でした。私は、能舞台をイメージしたという、離と母屋の玄関を繋ぐ曲がった廊下が気に入りました。ボランティアの解説の方のお話も淀みなく豊富で楽しかったです。

以上成城散歩でした。長くなりましたね。
最後に、、、。この日は一日雨だったのですが、やはり雨の日の散歩はさみしいですね。日曜だというのにまちには人があんまりいませんし、緑地にも今回訪れたスポットでも誰一人として人に会いませんでした。なかんだの坂の緑地も急斜面でぬかるんでいたので、ほとんど足を踏み入れることができませんでした。また富士見橋でももちろん富士山が見えませんでしたし、なによりも雨だとせたがやじんの相手が大変で大変で・・・。傘差して雨の中せたがやじんと一緒にお散歩するというのはかなり厳しかったです。
でもその反動か、ボランティアの方と話せた猪俣邸は楽しかったです♪傘もいりませんし。

富士見橋にて
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成城三丁目こもれびの庭市民緑地にて
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喜多見不動にて
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猪俣邸にて
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by hirainatsuko | 2006-06-13 13:34 | お散歩


砧の民話

今回は砧の地名の由来になった砧がでてくる、悲しいお話です。

砧村には、お春という娘が父親と二人で暮らしていました。しかし父親が病気になってしまい、まだ十二歳のお春が父親の代わりにせっせと働きました。砧村はその昔絹の生産地であり、お春も最近になって、布をきぬたでたたく仕事をもらえるようになりました。そしてお春は夜になってもトーントーンときぬたをたたき、一生懸命働いていましたが、これだけでは父親の薬代もままならない状態でした。そんな中、江戸から甲州街道や大山道を通って絹を売り歩いている商人たちが、江戸に奉公しに来ないかと言ってきました。奉公といっても、実質は商家に売り飛ばされるということです。お春もそれは知っていましたが、日々の生活が苦しくなり、とうとう三年の契約で江戸に奉公しに行くことになりました。そして父親は立ちすくみ、江戸へ旅立つお春を見送った晩のことです。父親が床に伏せていると、外からトーントーンときぬたのたたく音が聞こえます。お春が帰ってきたのかもしれないと思って外に出てみましたが、誰の姿も見えません。しかしきぬたの物悲しい音は、あくる晩もその次の晩も聞こえてきました。その音を聞きながら、父親はお春を奉公に出したことを今更ながら後悔したということです。

砧の地名は、布をたたく砧からきたものとされています。
古代においては東歌にも詠まれるほど、多摩川は絹の産地として有名でしたが、江戸時代に入ってもこの地域が絹の産地であったことは知りませんでした。
しかし砧らしいお話だなと思います。

『新・きぬた村のむかし話』(石井作平作)より。
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by hirainatsuko | 2006-06-08 15:08 | 民話・伝説

    

きょうどしか(志望)
by ooyama michiko
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